30年かけて伊勢の地に創建
伊勢神宮に祀られる天照大神は八百万の神様の最高神であり、伊勢神宮のご神体である八咫鏡は、孫の瓊瓊杵尊が地上世界へ降り立つ際に天照大神が授けたものです。天照大神は瓊瓊杵尊にこの鏡を天照大神の分身として代々祀るように伝えます。
瓊瓊杵尊のひ孫に当たる神武天皇が初代天皇に即位したのちも、この鏡は歴代天皇によって皇居内で祀られました。ところが10代崇神天皇は八咫鏡(天照大神)と同じ場所で暮らすことは畏れ多いとして、八咫鏡を祀る神社の創建を命じます。
天照大神の意志に背く行為のように思えますが、これは「神を祀ること」の重大性を人間が認識し、また、祀る方法を身につけたことを意味していると言えるでしょう。それまで神と人間の境界線が曖昧だった状態を明確に区別して祭祀を行うことを目指したと受け取れます。
崇神天皇は娘の豊鋤入姫命に八咫鏡を託し、大和の笠縫邑に祀らせました。その場所には現在、檜原神社があります。続く11代垂仁天皇の代になると、八咫鏡の祭祀は豊鋤入姫命から垂仁天皇の娘、倭姫命に受け継がれます。
倭姫命は天照大神を祀るのにふさわしい地を目指して旅立ちます。そして大和から伊賀、近江、美濃、尾張へと巡りながら、現在の伊勢の五十鈴川のほとりにたどり着きました。この旅は30年にも及び、ようやく八咫鏡は伊勢の地に祀られるようになったのです。
この伊勢神宮創建のエピソードは、それまで巨石や巨木、滝などの自然物(屋外)や、宮中や豪族の館などの生活の場(屋内)だった祭祀場から、常設の社殿を築き、神様を独立して祀る「神社」が誕生したことを示していると言えるでしょう。
天照大神によって建てられた宮殿
出雲大社の創建は、伊勢神宮創建よりも前の神代のことです。天上世界を治めていた天照大神は、独自に発展した地上世界の統治に乗り出そうとします。この地上世界を発展させたのが、出雲大社に祀られる大国主命です。天照大神は国を譲る交渉役として子神(天穂日命)と天若日子命を送りますが、2神とも大国主命に帰順してしまいました。いかに大国主命が求心力を持っていたかがわかります。
そこで天照大神は大国主命のもとに武神を送ることにしました。稲佐の浜に降り立った武神、建御雷神は大国主命に、地上世界の統治を天津神(天上世界の神々)に譲るように伝えました。大国主命は、2人の息子が同意し、自らが住む巨大な宮殿を建てることを条件に国を譲ると伝えます。
こうして国譲りは行われ、巨大な宮殿として出雲大社が創建されたと伝えられます。
10月のことを神無月と呼びますが、これは出雲大社に祀られる大国主命の下に、全国の神様が集うため不在となることからです。そのため出雲の地では、10月を神在月と呼びます。神々は出雲大社で各地域の人々の縁を結ぶ会議を行います。地上世界を治めた偉大さが現在も祭祀として残っているのです。