自然と共生 人よりも偉い自然の神様

動植物も神様の子孫

豊かな風土に恵まれた日本では、自然に対する畏敬の念がおのずと育まれました。一方で、捕鯨やイルカ漁などで欧米から動物愛護、環境意識の低さを指摘されます。このギャップはどこから生まれるのでしょうか。

「旧約聖書」では、絶対神が動物などの生物を造り終えたのちに、すべての生物を治める者として、自らの姿に似せて人間を造ったとされます。一方、日本では人の姿をした神様も山の神や風の神などと同様に、自然界すべての生物もまた神様の子孫(分霊)なのです。このため巨木や巨石などに宿る自然の神様は人間の祖先神と同様に畏敬すべき存在となったのです。

神道には、「一にして多、多にして一」という多元的な世界観があります。これは一つの完成した存在が多様な形で現れる、あるいは多様な存在が集まって一つの完成した存在となるという世界観です。日本の神様は完全無欠な絶対神ではありません。様々な能力や特徴を持った多くの神様がいることで、豊かな恵みが与えられると考えるのです。このことは伊勢神宮を見ればよくわかります。伊勢神宮の内宮のご祭神は天照大神ですが、この内宮を含めた125社を合わせた総称が「伊勢神宮」なのです。

自然と人間は同列の存在

キリスト教的な神様が唯一の存在であるのに対して、日本の神様は様々な動植物、微生物、風や水などが循環している森のように一つに結びついているイメージです。この森の中の各存在に優劣はなく、どれかが欠ければ歪みが生じてしまうことでしょう。日本人にとって人間は自然の中にあり、他の各存在と同列の存在の一つなのです。

ではなぜ環境問題などで欧米の価値観とぶつかるのでしょうか。キリスト教的な考えでは、動植物は人間よりも下位の存在であり、守るべき存在です。しかし、日本人にとって動植物は同列であり、時には命を脅かす上位の存在にもなることがあります。動植物に対する意識が低いのではなく、すべての動植物に対する畏敬の念があるからこそ、特定の動植物に対して特別扱いをすることはないのです。

環境問題は、一部の生物を保護するだけでは根本的な解決が難しい者です。食物連鎖を含む自然の循環を総合的に考えなくてはなりません。万物に八百万の神々が宿るとする考え方は、日本人が自然の姿を深く理解し、人間も自然の一部として生活してきたことを意味するのです。