神社と他の宗教とのちがい

教えも教典もありません

日本に生まれ、日本に育った人でしたら、誰でも一度は神社に行った経験があるだろうと思います。神社も宗教施設に分類されるんですが、神社へ行くときに「宗教的な行為」として参拝するというよりは、幼い頃から自然に「お参りする」というのが一般的な感覚ではないかと思います。それって、なぜなんでしょう。

神社の宗教は「神道」

神社の宗教は「神道」です。一般的に宗教は、仏教やキリスト教といった「○○教」という呼び方になるのが普通です。

仏教なら、釈迦の教えをまとめた「仏典」があります。キリスト教なら、旧約と新約の2つの「聖書」という教典があります。それぞれ、人が行うべき教えだったり、守らなければならない戒律があったりします。

しかし、神道にはそのような戒律や教えがなく、教典もないんです。

「神道」という言葉の意味

では「神道」という言葉はどういう意味なんでしょうか。これは、もともと中国でつくられた言葉で、「霊妙なる(神の)自然の理法(道)」という意味です。

自然とともに、その一部として暮らした古代の日本人たちの信仰と合致したため、後世に「神道」という言葉を名称に使ったのだと考えられます。

このように考えると、「宗教」というよりは「信仰」と行った言葉の方がしっくりきますね。

神道の心を伝える「神典」

神道には教典はありませんが、「神典」と呼ばれるものがあります。現存する最古の歴史書である「古事記」や、最古の正史である「日本書紀」にはじまり、地方地誌である「風土記」、最古の歌集「万葉集」にいたるまでの古記録文献を指します。

これらはあくまで「記録」であり、「○○をしなさい」とか「○○をしてはならない」といった体系的な「教え」ではありません。ただ、これらの記録に描かれた神々の様子や、人々の生き方から、日本人の人間観を読み解くことができます。

神道の美徳

「神典」の受け止め方は人それぞれで違うと思います。ただ、神道では「言挙げ」しないことを美徳とします。「言挙げ」とは、「言葉にして明確にすること」です。「神典」がはっきりとした教えを提示しないのも、この「言挙げ」しない理念からのものです。

神道は自然信仰がベースです。でも、「自然」が何かを語りかけることはありませんよね。例えば、森の中の巨木などに対して神聖なものを感じるのは日本人にとって当たり前の間隔です。しかし、そこから何か明確な「教え」や「考え」が提示されるわけじゃありません。

神道とは、「理解」するのではなく「感じる」信仰なのです。

神道の目的

仏教やキリスト教は、生きる上での苦しみから人々を救うことを目的に生まれました。

仏教では、人は死ぬとまた別の生命に生まれ変わるという考え方があります。これを「輪廻転生」といい、一見よいことのように思えますが、苦しみに満ちた世界で何度も生活をすることは辛いものとも考えられます。そして、苦しみのサイクルから抜け出して、生命を超越した存在(=仏)になることを目的とします。

キリスト教では、人が苦しむ理由は最初の人間のアダムとイブが神の禁忌を破って楽園を追放されたからだという考え方です。この、人間が犯した罪を「原罪」といいます。キリスト教では人間は生まれながらにして罪を背負い、神から罰を科せられた存在と捉えています。

神道は性善説

神道が世界を肯定的に捉えるのに対し、仏教とキリスト教は世界を否定的に捉えています。世界が苦しみに満ちていて、人は未完成な、愚かな存在だという考え方です。

神道が性善説であるのに対して、仏教とキリスト教は性悪説をとっていると考えると分かりやすいかと思います。